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思考の最果て
雑記、ゲーム、運営サイト関連など、気ままに。毎週金曜に定期更新予定。
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白銀(WriteIDEA)

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長野県在住。
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週刊 WriteIDEA -2019.2.15-
 <今週の白銀>
 GジェネとFF14の二重生活。Gジェネは新作が出る前に、というかできるだけ早い内にプラチナトロフィーを取得して一区切り付けたいなというところ。全てのステージクリアというトロフィーが、全ての難易度で全てのステージをクリアせよ、という内容ではなく、「世界が眠る日」のクリアで取得できたのでほっとしているところです。残っているトロフィーはユニットと戦艦のレベル、全クエストの達成、プロフィール100%辺り。Gジェネは部隊編成を自分好みに拘りだすときりがないので、プラチナトロフィーが取れたら区切ろうと思ってます。
 FF14でもエウレカという時間をかけて遊ぶタイプのコンテンツにあまり触れていないので、5.0までにはエウレカで作れる武器も1つぐらいは完成させたいところ。時間がかかる、という点で他のゲームと並行で進めにくいところがあるので、購入予定の新作が出たりするとそっちもやりたいし……。
 かといって睡眠時間を削ると能率が低下して色んなものに影響が出てしまうので効率良く時間を使いたいとは思うものの、中々難しい。ソロ用のゲームは精神と時の部屋にでも籠もってプレイしたくなるなぁ……。
 
 
 
 
 <創作の現況>
 『救国のアルザード』10章進捗50%
 
 
 <IDEA Pickup>
 『規制』の話、その3。
 
 今回はショッキングな描写について考えてみることにします。
 規制するようなショッキングさ、と言ってぱっと思いつくのはグロテスク、あるいはスプラッタな表現でしょうか。人体、あるいは生物に対する破壊表現。これらは人によって耐性の有無が分かれるところで、耐性のない人はそういうものを想像させるだけで気分が悪くなったりします。
 私の知人の中にも残虐表現に対する耐性が極端に低い人がいるのですが、リアリティのある流血表現の時点でもう気分が悪くなり、少しでも肉体破壊が見える形であれば直視を避けるほどになります。こういったタイプの人にとって、その部分にフィルターをかける規制表現は、作品をしっかり見るためにはありがたい機能なのかもしれません。
 私はそこまで耐性が低いとは思っていませんが、『マブラヴ オルタネイティヴ』をプレイしていた際に何のワンクッションもなく、俗に言うトラウマシーンに辿り着いた時には流石に「うっ……!」となるぐらいの衝撃は受けました。耐性のない人にとってはまさにトラウマになりかねないシーンですし、耐性がある程度あったとしても平然と受け止められる人は少ないんじゃないかと思います。
 逆に言うと、それだけの衝撃をユーザーに与えた、という点であのシーンがあの描写であることには価値があるとも思います。感情移入や作中の登場人物たちと同様の衝撃や感情の動きを与える手法としても、表現としても、規制がないことで強烈なインパクトがあり、その後のストーリーやキャラクターの行動への説得力や共感性に貢献していたと思います。後にモザイクを追加するパッチやバージョンが出たりもしたようですが、それが良いことなのか、は正直分かりません。耐性の低い友人にそのまま見せたら間違いなくトラウマになるだろうと思いますし、プレイしてもらうなら規制の入っているバージョンでないとどうなるか……。
 
 個人的には、そういうものにはフィルターのオンオフが出来るようにして警告や注意などをしっかり喚起できるようにすれば良いのでは、と思っています。
 直視はしたくないけれど、作品そのものは楽しみたい層は規制のフィルターをオンにして、そうではない、描かれているそのままを受け取りたいという人はフィルターオフで見られるようにすれば良いのに、と。
 とはいえ、単純にシステムの処理としてオンオフできるような設計がされていればまだ良いのですが、どちらかに固定されたものが出回ってしまったり、故意にフィルターなしを見せようとしたり、という行為を止められるかどうかというのを考えると、フィルターありで固定しなければ耐性のない人が一方的に不利、というのも否定し切れないところです。
 結局、不愉快だと感じる人が1人でもいるのであれば規制すべき、という論調は、不愉快だと感じない人が1人でもいるなら規制するべきではない、という正反対の意見で相殺できないのですよね。規制なしで不愉快だと感じない人は、規制ありでも不愉快には感じないだろう、という上位互換のような扱いを受けてしまうでしょうし。
 規制によってそこに描かれた生の表現が見れないことが不愉快だ、という主張はできますが、規制なしで見せられた人の不愉快さ、とのダメージバランスがどうしても後者に傾きがちで、見れないことの不満は軽視されてしまいます。後者は、もしも見てしまってダメージを受けたら不可逆だから、ということなのでしょう。
 インターネットやSNSが普及した今では、画像や映像の流出は起こりえることとすれば、先にフィルターをかけておく、というのが事前の防衛策ということになってしまうのだと思います。
 とはいえ、医者を目指す人は生物の構造について学びますし、目にする機会もあります。そこにフィルターはありませんし、手術などをするのに規制は邪魔なだけです。
 医者でなくとも、人や生物の構造上、リアリティを求めるのであればそういう描写がされること自体は不自然ではないと思いますし、規制の下ではきっちり描かれているのだとしたら、それを見られないというのは、ユーザーそれぞれがそれを見たいか見たくないかはともかく、創作物としては勿体ないことだと思うのですよね。
 
 作り手側が自主規制をかけるのではなく、受け手側が任意に規制を挟むことができるシステムがあればいいのでは、と思いましたがそんなシステムはどうやったら、あるいはいつになった作れるようになるのでしょうかね……。
 
 
 <思案する>
 創作活動についてふと考えたことがあったので、今回はそれについての話。
 
 マンガやイラストに纏わる話題だったのですが、『自分の好きなものを描くのがアーティスト』『他者の好きなものを描くのがデザイナー』といったものを目にしました。
 いわゆる、「職業としてのクリエイターになると自分の好きなように生み出せない」というような話題なわけですが、それについて様々な意見を見ていて私にも思うところがあったわけです。
 
 例えば、マンガであれば商業的に出版したりするのであれば「売れる設定や世界観、話を作らなければならない」というような制約が出てくることでしょう。流行に乗った話であったり、設定だったり、編集者や出版社側からの指示や要望に沿った作品にしなければOKが出ず、作者としては盛り込みたかったものを泣く泣く削る、なんて話も珍しくはないのかもしれません。
 イラストレーターにしても、クライアントからの要求が作者の個性であったり拘りであったりを軽視するようなものもあるのでしょう。好きな題材であっても、クライアントからの注文や指示が多くて自分の思い通りに描けない、とか。
 ゲームであればここ数回話題にもしていますが規制関係があったりしますし。
 インターネットやSNSが普及した今では、そういった話が時折聞こえてきます。
 で、そういった時の返答というか意見として、「職業にすると好きにやれない。好きにやりたいなら趣味でやっていた方がいい」というのもよく見るようになってきました。
 
 端的に言って、「職業クリエイターって思っていたより魅力がないのかも?」という考えが浮かんできたわけです。
 インターネットが普及する前は、創作活動をしてもそれを他者に見せる場が少なく、目に見えて形として誰にでも分かる成果は出版社の主催する賞に応募して受賞すること、というイメージが強くありました。この頃は、自分でウェブサイトや投稿サイトに創作物を掲載しても、最終的な目標に賞への応募と受賞からの商業デビュー、といった雰囲気があったように思います。
 ところが、今はインターネットが普及し、小説やイラスト、マンガなどを投稿できるフリーのサービスが浸透し、誰でも自分の作ったものを簡単に他者へ公開できるようになりました。誰でも、という点で玉石混合ではあるものの、中には商業クリエイター顔負けのものを生み出す者も少なくなく現れるようになり、商業関係者がそういったサービスで注目を浴びている人をスカウトするような事例も出てきています。
 「小説家になろう」辺りが良い例で、書籍化、マンガ化、アニメ化と商業的な展開をする作品が昨今多くあります。その作品が良いか悪いか、面白いか面白くないかは好みの問題もあるし今回の話題には直接関わりがないのでさておき、「最初は趣味で書いていたであろうものが商業展開するような時代になった」という部分が重要です。
 とはいえ、賞の魅力がなくなったか、というとそうとも言い切れないところはあります。受賞できれば賞金はもらえますし、出版できる可能性も高い。価値が低下した、とは思っていません。
 
 ただ、SNSや投稿サイトが普及し、気軽に作品を公開できるようになったことで「自分の作品を人の目に触れさせるなら応募に拘らなくてもいいのでは?」という思いも出てきたといいますか。
 仮に、商業展開に漕ぎ着けられたとして、それまでは自分の思い通りに書けていたものをこれからは商業的にアウトだから曲げろと言われたり、商業的にはこうした方が売れるからと指示されたり、不本意な修正をしなければならなくなったりするのであれば、その時私は創作を職業としてやっていけるのだろうか、という、まぁ、取らぬ狸の皮算用ではあるのですが考えてしまったりして。
 自分の好き勝手に書いたものをただ公開するだけであれば、趣味として自分のウェブサイトや投稿サイトに掲載していた方が、色んなものに縛られることなく活動し続けられるのではないか、と。
 特にここ最近は気軽に作品を公開できるようになったことで、自分の創作物を他人に見せる、という行為の敷居は大きく下がっています。
 ゲームに関しても、やはり企業として作っているところは規模やクオリティ等の面で有利はありますが、同人ゲームやフリーで公開されているゲームにも光るものはあったりしますし、ゲームに限らず、単純に「商業流通しているから良い作品、一定以上の品質や面白さが保障されている作品」とは言えなくなってきているのかもしれません。
 個人製作、趣味、であっても良いものはありますし、私自身もより良いもの、面白いと思うものを生み出していきたいという思いはあります。
 
 努力や才能がない者の言い訳、と言われればそれまでではありますが……。
 ともあれ、応募自体を諦めたわけではなく、受賞できるような作品を書けるに越したことはないとは思っています。
 根本的に、「何のために受賞(=商業展開)を望むのか」という話なわけですが、それを考えた時に「自己肯定」以外に理由が見つからなかったんですよね。自分の作ったものが商業展開するに足ると周囲から評価をされた、相応にお金を払う価値があると見做された、私の価値観や主義主張、好みが認められた、という実感が得られるだろう、と。賞金や印税収入という即物的なものも魅力には思いますが、つまるところ「受賞した凄いだろ!」という見栄を張りたいという欲求もあるな、と思ったわけです。
 それが否定されるべきものだ、とは思いません。自己肯定感や自己満足感は人それぞれ価値観の異なる部分でしょうから、それによって他者を害さない限りは追求しても良いものだと思います。
 ただ、これまでにもブログで語ってきた通り、私が創作活動をする原動力が衝動であり、「こういうのが好き!」「こういうのが良い!」「私の考える面白い楽しいはこうだ!」という主張や思いの発露であるとすれば、商業デビューのような「自己肯定」がなくとも創作活動は続けていけるだろうな、という気はしています。応募意欲が減少した、というよりは応募タイミングを逃しても気楽に構えられるポジティブさを身に着けた、という言い訳にしておきましょうか。
 
 まぁ、私の場合一番の問題は自分のことだけで手一杯であまり周りへ目を向けられていないことかもしれませんけれど。
 
 
 <連載>
 『ユー・アンド・アイ』
 著:白銀   原案:遠藤 敬之 
 #15
 
 
 今回は英司が何も言わなかったから、シルヴィは英司の分しか料理を作らなかった。
 自身の分も用意して一緒に食べよう、と指示をしていれば、彼女はそれを実行するだろう。
 AMATという、人間ではない存在だと分かっていても、自分だけが食事をしているというのにどこか違和感を抱いてしまう。彼女自身は平然としているし、食事をしなければならないわけでもないのだから、これは英司が気にし過ぎているだけだ。つまるところそれだけ彼女を人間と同じように認識してしまっている、ということなのだろう。
「凄いな、AMATってのは……」
 人間そっくりのタイプにしたのは英司自身だが、ここまでのものが頑張れば学生でも手が届く値段になっている、ということに技術の進歩を感じる。
 普段から遣っているスマートタブレットだって、一昔前のスマートフォンに比べたら格段に性能が向上し機能も増えた。当時の高性能パソコン並のものが、スマートフォンサイズになった、とでも言えば分かり易いだろうか。今でも大型高性能パソコンの需要自体はあるが、ほとんどの人はスマートタブレットとそれに連携できる機器で事足りる時代になった。
 オンラインゲームだって、メガネサイズのVRゴーグル端末だけで遊べてしまう。
「科学技術の進歩という奴ですね」
 律儀にシルヴィは相槌を打ってくれる。
 時間が経てば、彼女の存在にも慣れるものなのだろうか。
 
 
 ――つづく
 
 
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