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創作齧ってる視点からの『けものフレンズ2』
 週間連載以外では久しぶりの単独記事です。
 『けものフレンズ2』を6話まで見て思ったこと考えたことを書き連ねています。
 思いのほか長くなりました_(:3 」∠ )_
 
 
 
 
 というわけで何かと話題になっている『けものフレンズ2』ですが、6話まで見ました。
 正直に言って、5話、6話は見ていて「さすがにこれは荒れるのも仕方ない」と思いました。
 2期1話の放映当初から、アニメ1期で私の中に刷り込まれた『けものフレンズ』の印象との間には差を感じていて、「何だか違和感がある」とは思っていました。
 
 あらかじめ断っておくと、私は『けものフレンズ』の信者ではありません。同時に、1期監督の信者でもありません。
 この記事は私という人間の価値観と、主観によるフィルターを通しての記事なので、客観性などはないかもしれません。
 あとネタバレもします。
 
 1期も一通り見ましたが、手放しに良い作品だとまでは思いませんでした。ただ、丁寧に作られているとは思いましたし、見始めたのがなんとなくでも最後まで見れて少し感動する程度には魅力があったと思います。
 1期が話題になって終了した後、続編の製作がアナウンスされ、監督と制作会社の変更が発表されて話題となり、2期が放映され始めたので、1期を見ていたこともあり2期も見ることにしたわけですが、確かに各所で言われているような違和感を私も抱きました。
 1期と2期とで抱いた違和感などについては、この方<アニメ『けものフレンズ2』の構造上の欠陥ージャパリパークは「動物園」である>(https://ani-ma-ge.hatenablog.com/entry/2019/02/18/223816)の指摘がかなりしっくり来たので紹介しておきます。
 紹介した方の記事の中でも紹介されている「視線でのコミュニケーションがしっかり取れている」という1期の分析が2期では疎かにされているという指摘を見たことで、映像としての違和感には納得のいく部分が多くありました。
 紹介した記事の中で指摘している、「アニメ1期は行動展示の動物園だった」「2期は行動展示の動物園として作られていない」というのにも納得できます。
 
 さてようやく本題。
 6話を見て、率直に私が思ったことと言えば、「続編を作るに当たって、どうしてこういう形を選んだんだろう?」というもの。
 仮に私が自分の手掛けた作品ではないものの続編を考えろと指示された場合、今の2期のようなプロットやシナリオ、ストーリーを考えるだろうか。特に何も制約がなく、自由にやっていい、というのであれば間違いなくNOです。
 何故かと言えば、「前作を自分が手掛けていないから」というのが一番の理由になります。前作を手掛けたチームにいた、とかでもない限り、前作のテーマやルール、根幹の理解といった部分にはどうしても欠けることになります。どれだけ熱心に読み込んだとしても、それを作った側にいたのでもなければ、そこには自分の価値観や主観といったものがフィルターとして挟まれてしまいます。
 極端な話、「自分の認識」でしか人はものを作れません。
 認識が前作と一致していない以上、続編を地続きにする、前作のキャラを出す、というのはリスクが大きい。よほど自分の認識に自信があるか、あるいはそれを必ず盛り込むようにと指示されない限り、趣味や妄想として好き勝手するのが目的の二次創作ではなく公式の続編作品としてそういった要素を盛り込んで続編を描こうとは私なら思いません。
 前作のキャラを出すにしても、極力前作で形作られた印象を崩さないように心がけるでしょう。変化させるにしても、前作を知っている人が見て納得のいく経緯や説明を挟まなければ、とも思いますし。
 これも何故かと言えば、「前作のファンを敵に回したくないから」です。
 続編というものは、どうあっても前作を知っている受け手が存在します。何かの続編である、と発表された時点で、前作を見てみよう、と思う人だっているはず。
 続編というものの性質上、新規の流入よりも前作からの継続の方が割合としては大きくなる傾向があると思います。むしろ、続編の製作はそういった、継続+新規による消費者の拡大を期待して行われることもあるはず。
 であれば、そういった前作を見た知った上で続編に触れる人の期待をわざわざ裏切るようなことはしたくない。誰だって批判されたいなんて思わないでしょうし。ビジネス商品としても、お客さんは多いに越したことはありませんから、1度ついたファンに離れられてしまうのは損と言えます。
 良い意味で期待を裏切る、というのは期待していたものの上を行く、という意味であって、決して逆走したり、期待していたものとは別の方向に走ることではありません。稀にそれで成功することがあるとしても。
 恐らく、ほとんどの人は、続編に出てくる前作キャラに対して「こうあって欲しい」「こうであって欲しい」という期待をすると思います。それとは違う形を描くとなれば、そうなっていることに必要性や納得できる理由がはっきりと垣間見えなければ不満を言う人は必ず出てくると思います。
 これが、製作が同じ人であれば、よほどのことがない限りはきちんと経緯や理由が示されるでしょうし、今後そういうところが示されていくだろうという期待も持てますし、最悪でも製作者自身の判断なのだと諦めがつきます。
 
 では『けものフレンズ2』はどうか。
 既に多くの人が指摘していると思いますが、目線が相手に向いていない時があったり、という前作にあった演出が出来ていなかったり、主人公が解決するための問題が物語ありきで起きていて不自然であったり、そのキャラである必要性が薄かったり、と違和感の多い出来と言わざるを得ません。
 『けものフレンズ2』が、『2』ではなく、最初に放映されたアニメ第1作であったとしたら、精々「ちょっと不出来な作品」程度の印象だったと思います。前作で構築されていたセオリーやルールといったものが刷り込まれた人からすると、その出来の差というのが余計に大きく感じわけです。
 
 そして逆に、「では何故そうなってしまったのか?」という部分が私は気になりました。
 特に5話、6話で気になるのは前作で主人公だった「かばんちゃん」が登場するものの、その人物像があまりにも変化し過ぎているところ。キャラのデザインも相まって、あまりにも前作での印象から変わり過ぎている。それを仄めかすような描写やセリフはあるものの、明言はされない。
 アニメは映像作品ですから、セリフによる言葉や文字でなくても意図を伝える描き方というのは確かに存在します。ただ、はっきり何があったか明言された方がすっきりするという場合も多々あります。視聴者それぞれに考えさせる、というのも手法の一つだと思いますが、時としてそれは視聴者同士での対立を生むことにも繋がってしまいます。
 
 同時に、今回の物語では何を描きたかったのだろうか、とも思いました。
 『けものフレンズ2』の流れは、主人公キュルルが自分の家を探してジャパリパーク内を移動し、その先々で出会うフレンズたちの問題を解決したり交流したりしていく、というもの。
 この流れ自体は『けものフレンズ』1期とも共通する部分が多く、主人公かばんが自分のことを知るために情報があるだろうとされる図書館を目指してジャパリパーク内を移動し、その先々で出会うフレンズたちの問題を解決したり交流したりしていく、という部分を踏襲しているように見えます。
 ただ、1期では起きている問題に対して、フレンズたちの側に落ち度はないものがほとんどで、かばんの人間的な発想によって解決していくことで、ヒトという動物が得意とすること、特徴が示されていく、という構図になっていました。
 そして2期で起きている問題は、フレンズたち側に落ち度のあるものもあり、キュルルが人間の遊びを教えることで仲を深める、問題をおさめるといったような形が多い印象です。
 1期では、「ずっとパークで生活している」という部分が意識されているような印象で、問題は確かに起きてはいるものの、放っておいてもフレンズたちはそこまで困らずに生活を続けていけるだろう、と思えるものばかりです。というか、かばんが来るまでその状態で生活していたのだ、というのが分かる形になっています。
 2期では、「放っておいたら困ることになりそう」と感じる問題が多い印象です。
 パンダとレッサーパンダの話では、レッサーパンダが劣等感から嘘をついたり、遊具が壊れそうな時に助けようとしながら壊れるのを止められなかったり、そもそも壊れたところでパンダが怪我をするような場所や高さにいたわけでもなく、他のフレンズでも助けに行けるような場所だったり。
 5話におけるヒョウ&クロヒョウとイリエワニ&メガネカイマンの縄張り争いについても、放っておいたら喧嘩に発展してどちらかがどちらかを追い出すまで続きそうな雰囲気を出しています。しかも追い出された方はマイナス感情を持ち続けそうなちょっとギスギスした印象。1期6話でも縄張り争いの回がありましたが、こちらは争っている当人たちが「危ない。怪我人が出そうで嫌」と言っていたり、どこか相手を気遣っている空気がありました。
 2期5話でも、危ないから縄張り争いをやめさせたいという思いを持つゴリラが登場する、という構図は似通っているものの、話を回すための舞台装置感が非常に強い。キュルルが解決策というか縄張り争いの代行案として提示する紙相撲も、それを思い付く過程の脈絡が無さ過ぎる。
 根本的に、発生している問題に対して「ずっと前からその問題があったなら今に至るまでずっと同じように過ごしていられるのか」が考慮されていないように見えるのが問題で、つまるところ「キュルルが現れる前のパークやフレンズたちの姿」が見えてこない。
 
 物語というのは世界の一部を切り出しているようなもので、「その話の前にも世界はあったし、その話の後にも世界は続く」というのが想像できるべきだとされます。
 良く言われる「ご都合主義的」だとか「不自然」と言われたりする要素の多くの本質はそこに根差していると思います。「キャラクターが都合良く動いている。物語に合わせて動かされている」というのは、言わば「物語ありきでキャラクターが配置されている」という舞台装置感が隠し切れていないのだと思います。
 物語を考える際、考えたシナリオやストーリーに沿うようにキャラクターや設定を配置するというのは当然と言えば当然のことではありますが、それだけでは作り物感が強いもの、そうなるべくして作られたものになりがちです。創作者は、その物語世界の広がりや、没入間の増量、不自然さをなくすといった、受け手がその作品に心地良く浸れて創作者の描きたかったことを自然と受け取れるように模索するわけですが、そのためにキャラクターの生い立ちであったり、その世界の歴史や価値観であったりを調整し、物語の中で起きる様々な事象に対して必然性や必要性を付与しようとします。
 予定調和を予定調和に感じられないよう創意工夫しているとも言えます。
 
 また、作品世界やキャラクター造形、デザインラインの関係もあって時間経過が曖昧なのも問題の一つに思います。
 一応、サンドスターの影響で物質の劣化速度が抑えられているという設定があったりするようですが、それはそれとして、前作のキャラクターを登場させるにあたって見る側が気になることを挙げるなら「今作に置ける前作キャラの立ち位置、役割」「前作から何があったのか(=何故、今の状態になっているのか)」「どれくらい時間が経っているのか」といったところだと思います。
 私が前作のキャラクターを登場させることを考えるならば、最低でもこのうちのどれか1つには明確な答えを用意しようと考えます。それによって少しでも前作のキャラクターが今作の状態に変化していることへの説得力を持たせようとするでしょう。
 
 等と語ってきましたが、ここで話は戻ります。
 では、もし私が現状の『けものフレンズ2』のようなシナリオを構築せざるを得ないとしたら、それはどういう指示や要求をされた場合だろうか?
 ポイントとしては、前作を意識した作りでありながら、今作の主人公を印象付ける、辺りでしょうか。
 もっと極端な考え方をしていくと「前作と同じような形で、上回るものを作れ」という課題を出されたとすれば、分からなくもないかな、と。
 前作の形やパターンを踏襲するという条件指定があれば、「キュルルがヒト的発想を用いて道中で問題の解決や交流をしていく」という構成をせねばならず、キュルルが解決する問題を各地に用意しなければならなくなります。
 同時に、前作を上回るように、という指定を「前作に負けないキャラを描け」と受け取るとすれば、6話のように、かばんではなくキュルルが問題解決の糸口を発見する形を取ることで「前作主人公であるかばんでさえ気付かなかったことに気付くキュルルの優秀さ、特別さを演出する」という構成も案としては考えることになるでしょう。
 実際、「1期の主人公かばんは自分が何者なのかさえ分からない」のに対し、「2期主人公キュルルは自分をヒトだと認識し、家に帰りたい」とある種上位互換のようなスタートをしています。これにより、「かばんは自分もフレンズ(=動物の一種)」という認識と視点で行動していましたが、「キュルルは自分はフレンズではない(=動物ではないと区別している)」認識でいることになります。
 とはいえ、このポイントや制約自体はオーダーであるなら職業クリエイターであるなら従うほかありません。
 一番問題なのは、こういったオーダーがあって考えた構成だとして、その部分を自然に見せたり納得がいくような形に出来ていないことだと思います。
 
 様々な人が指摘しているように、粗があるように感じられたり、矛盾しているように見えたり、前作との整合性や変化に対する説得力が感じられなかったり、「何かおかしい、面白くない」と思わせてしまっているのが一番の問題だと思います。
 6話で言うなら、一見すると前作から時間が経って成長しているように見えるかばんでさえ気付かなかった問題の発生源に思い至るキュルル、という構図にするために、「かばんは海底火山というものの存在に気付いていない(あるいはそれが発生源だと思っていない)」という形になりました。ところが、夢を見てからキュルルが「確信を得るために家の中にあった本を調べる」という行動を取ったことで、「自分の家に海底火山について書かれた本があったのに今まで思い至らなかったかばん」というマイナスの構図が出来上がってしまい、結果としてキュルルの優秀さよりもかばんの無能さを印象付けてしまう構成になってしまっています。
 これが初出のキャラであったならまだしも、前作で主人公として活躍し時間も経過したことでキュルルよりも経験値があるはずだと思われるプラス要素の強いかばん相手にやってしまったことで、「キュルル凄い」ではなく「かばんが無能になってる」という印象を余計に与えてしまいます。
 いわゆる、特定のキャラをプラスに見せるために、周囲のキャラをマイナスに持っていくという、相対的な強調手法になっているわけですが、これの欠点は、プラスにしたいキャラにプラスの印象は与えられず、単に周囲がダメなだけ(主人公±0で周囲が-1なだけ)、という形になり易いことです。
 6話においてはこれが顕著で、ビーストに乱入されたことで避難したゴリラたち5話で問題を抱えていた面々が放置されてうやむやにされた挙句、その後触れられることもありませんでした。特に、サンドスターによってフレンズになり切れなかったビーストという狂暴な個体がいることが6話で説明されましたが、そのビースト自身は火のついた紙飛行機で誘導はされたものの、消滅したわけではありませんからあの付近からいなくなったとは考え難く、ゴリラたちの縄張り近くにいるだろうと容易に想像ができます。
 そんな状況であるにも関わらず、かばんはキュルル、サーバル、カラカルの3人だけを自宅に招いて「ここまではあいつも入って来れない」と安全を保障します。ゴリラたちは保護しなくていいのでしょうか。
 ビーストという存在への対処法にも触れられず、ゴリラたちの問題も解決しないまま放置され、前作で面識があるであろうと予想される者たちがいるものの、かばんもサーバルもお互いに会話で絡もうとせず、海底火山を発生源とする強力なセルリアンの存在や、海で見た大きな影、ビースト、といった不安要素が増えたにも関わらず、特に対策を聞くでもなく家探しを続行しようとするキュルルと、リストバンド状になったラッキービーストの1つを渡してそれを見送るかばん。
 何と言うか、情報が増えたことで話が動いたように見えて、その実何も進展していないのです。
 かばんの研究を手伝うわけでもなく、ビーストに対応する方法が提示されるわけでもなく、過去に何があったのかも語られず、それでいて絡みはなく、初めて出会ったはずの同じヒトであるかばんにヒトについて聞いたり、家の場所を聞いたりすることもなく、ましてやかばんがキュルルたちに同行するでもない。ついでに言えばゴリラたちの縄張り争いもちゃんと解決して和解させていないし、ビースト放置なのでどちらも安否不明。
 続編とか抜きにしても作品としてあまり杜撰過ぎるのでは?
 
 この話でやりたかったことは何なのでしょう。何を示そうとしたらこの構成になるのでしょう。
 ビーストの乱入というこれまでには無かった新しい危機的状況から、前作ラストで用いられた方法で注意を逸らし、前作主人公が登場するという5話ラストのシーンを強調しようとした、前作コンビの再会を印象的にしようとした、のであれば、6話でそれ以外(ビースト本人やゴリラたち)が放り投げられてしまっているため、それらの舞台装置感を消せていないので失敗と言わざるを得ません。
 時間が経過し、記憶の引き継がれない再フレンズ化したサーバルに、過去のことをあれこれ言っても困惑させるだけ、今楽しくやっているのに水を差す必要はない、と黙っていたのだと考察することもできなくはありません。引き出しの中に複数あった腕時計状ラッキービーストはどうしたのか、お茶を飲んでいる部屋にあったカプセルシリンダーのようなものは何なのかかばんは知っているのか、等、思わせぶり、意味深な描写は多々ありましたが、そういうものに対してこれから触れるような仄めかしもなく、これまでの話で抱かされている茶番感もあって、今後の展開に期待感が持てません。
 とはいえ、どういう落とし所に持って行くのか、という部分には興味があります。
 今後の展開、伏線回収、どんでん返しの仕方次第では評価が変わる可能性もゼロではありません。ただ、ゼロではないだけで、ここに至るまでの間に多くの人に「面白くない」「期待していたのと違う」という印象を与えてしまったのは落ち度だと思います。
 
 先の分からないワクワク感やどうなるのかという不安感や期待感は、情報や解答が示されずに話が進むこととは違います。
 ストーリーやシナリオの構成や展開にキャラクターの行動や言動を沿わせれば茶番感が増します。
 というか、物語としての構成や、構造を考えると、杜撰だと感じる部分が多過ぎるように思います。茶番感の強さが鼻に付くと言いますか。
 
 製作側にも映像や音楽の製作やセリフの収録、予算の都合や納期などによるシナリオ内容の可能不可能など、事情や言い分はあるのかもしれません。
 ただ、だからと言って出来上がった作品をどう受け取るかというのに制限はないと思いますし、文句を言う自由も、擁護する自由もあると思います。
 実際に製作者たちがどう思っているかまでは分かりませんが、私個人としてはある程度同情できるところはあるかなと思いつつ、それでもやっぱり『けものフレンズ2』という作品そのものについては現状、「面白くない作品」というのが素直な感想です。
 
 ※追記ができました。
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テーマ:けものフレンズ - ジャンル:アニメ・コミック

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